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View 第8章

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2003-06-10 23:40
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八木都志郎
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『Free as in Freedom』の第8章「Stark Moral Choice」の訳文(八木都志郎訳)です。
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Japanese
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7. 純然たる道徳規準の選択

1983年9月27日、Usenetのニューズグループnet.unix-wizardsにログインしていたコンピュータプログラマたちは、奇妙なメッセージに出くわした。未明に投稿され、正確には午前0時30分だが、rms@mit-ozと署名されたそのメッセージのサブジェクトは、簡潔だが見る者の目を引いた。「新しいUNIXを実現」とあるが、新たにリリースされたUnixのバージョンの紹介ではなく、本文の最初の段落には戦力の公募が発表されていたのだ。

今年の感謝祭の始めに、Unix完全互換のソフトウェアシステム、GNU(Gnu's Not Unixの略)を書き始めて、使える人であれば誰にでも自由に公開します。時間やお金、プログラムや機材の寄与が大いに必要になります。(52)

腕に覚えのあるUnixの開発者にとって、このメッセージは理想主義と自信過剰の入り交じったものだった。この著者は既に成熟したUnixオペレーティング・システムを一から作り直すと公約しているのみならず、所々を改良することまで企てているのだ。また、著者の予言する新しいGNUシステムには、テキストエディタやUnix互換アプリケーションを走らせるシェルプログラム、コンパイラ、そして「その他いくつか」の一般的なコンポーネントが全て含まれている。(53)さらに、グラフィック・ユーザー・インターフェイスをベースにしたLispプログラミング言語やクラッシュ耐性化されたファイルシステム、それにMITのインターナル・ネットワーキング・システムに準じて作られたネットワーキング・プロトコルのような、まだUnixシステムにはない多くの魅力的な機能を備えているという。

「GNUはUnixプログラムを実行できるようになるでしょうが、Unixと全く同じものになるわけではありません」と著者は記している。「他のオペレーティング・システムでの経験に基づき、それが便利なものであれば、あらゆる改良を施すつもりです」

読者の中に懐疑的な反応があることを見越して、著者は念のため自分のオペレーティング・システムの概要を追加し、それに「私は何者か」と題した簡単な略歴を添えていた。

私はリチャード・ストールマン、数多く模倣されたオリジナルのEMACSの考案者で、現在MITの人工知能研究所にいます。コンパイラやエディタ、デバッガ、コマンドインタプリタ、インコンパチブル・タイムシェアリング・システムとLispマシン・オペレーティング・システムについて広範囲に取り組んできました。ITSでは端末非依存ディスプレイのサポートを先駆けて開発しました。他にもLispマシンにクラッシュ耐性のファイルシステムを一つ、ウィンドウシステムを二つ実装しました。(54)

運命の定めにより、ストールマンの現実離れしたGNUプロジェクトは感謝祭の日を創設日にすることは出来なかった。しかし、1984年の1月までにはストールマンは約束を果たし、Unixのソフトウェア開発に完全に没頭していった。ITS育ちのソフトウェア設計者にとって、それはまるでムーア様式の宮殿の代わりに郊外型ショッピングモールをデザインするようなものだった。それでもUnixライクなオペレーティング・システムを作るのには隠れた利点もあった。ITSはパワフルだが、アキレス腱もある。MITのハッカーたちはDEC製PDP系の特殊な利点を活かして設計していたが、AI研の管理者が1980年代の始めに研究所のパワフルなPHP-10の廃止を選んだ時、かつてハッカーたちが活気ある都市になぞらえたこのオペレーティング・システムが、瞬く間にゴーストタウンと化してしまったのだ。それに対し、Unixは移植性が高くなるよう設計され、また長い間生き残ってきたものだった。元はAT&Tの下級エンジニアたちによって開発されていたが、プログラムは企業経営者のレーダーから逃れ、資金繰りの厳しい大学のコンピュータシステムに安住の地を見いだしていた。Unixの開発者はMITの同胞たちよりも人数は少なかったが、大半のAI研のハッカーからは小さなタスクにしか合わないと思われていた16bitのPDP-11からVAX 11/780のような32bitのメインフレームに至るような雑多なハードウェアシステム一式の上にソフトウェアを載せるべくカスタマイズしてきた。1983年にはいくつかの企業、とりわけサンマイクロシステムズは、ますます偏在化するオペレーティングシステムの利点を活かすべく、さらに一歩進んで「ワークステーション」と呼ばれる新世代のマイクロコンピュータを開発するようになっていた。

このプロセスをさらに円滑にするため、主なUnix系のデザインに従事していた開発者たちはソフトウェアとマシンの間に必ずもう一つの抽象レイヤーを置くようにしていた。AI研のハッカーたちがITSやPDP-10でそうしたように、特定のマシンのリソースの利点を活かすためにオペレーティングシステムを仕立てていくのではなく、Unixの開発者はもっと汎用的な、吊しの服のようなやり方を好んだのだ。実際のコンポーネント自体にではなく、むしろオペレーティング・システムのサブコンポーネントをまとめている規格や仕様の方に合わせることを重視して、彼らはどのマシンのテイストにも合うように素早く修正することができるシステムを作り出していった。ユーザーがどこかの箇所について不満を伝えてきても、規格があれば個々のサブコンポーネントを抜き出してそれを直したり、もっといいものに交換することが可能になる。端的にいえば、Unixのアプローチはスタイルや美的な面では物足りないが、柔軟さと経済性の面でそれを補って余りあるものであり、それゆえ、急速に導入されていったのだ。 (55)

ストールマンがGNUシステムの開発を始めようと決心したきっかけは、AI研のハッカーたちが長い間育て上げてきたITSシステムの終焉だった。ITSの死はストールマンにとって忘れられない打撃であった。ゼロックスのレーザープリンタのエピソードに続き、AI研のハッカー文化が外界のビジネス慣習から免疫ではなくなってしまったことを示す決定的な証拠となったのだから。

ITSの死に至った事の起こりは、そのソフトウェアコードと同じく、遙か昔に遡る。コンピュータサイエンスの研究の主要な源泉であった国防予算は、ヴェトナム戦争以降すっかり干上がってしまっていた。新たな資金を得るための絶望的な奮闘の中、研究所と大学は民間セクターに救いを求めるようになっていった。AI研の場合、投資家の評価を勝ち取るのはたやすいことだ。戦後の最も野心的なコンピュータサイエンス関連プロジェクトのいくつかの拠点として、研究所はテクノロジーの短期養成所となっていたのだ。実際、1980年には多くのハッカーたちを含め研究所のスタッフの大半が、研究と営利目的のプロジェクトの双方に時間を割くようになっていた。

当初は双方にプラスとなる取引のように思われた。ハッカーは最高のプロジェクトで働き、研究所にたくさんの生まれたばかりの最新のコンピュータ技術をお目見えさせるというのだから。しかし、すぐにこれはファウスト博士のような契約であることが明らかになった。ハッカーが最先端の営利目的のプロジェクトに時間をあてる時間が増えると、その分、研究所の古めかしいソフトウェアインフラ全般の管理のための時間がなくなっていく。間もなく企業は彼らの時間や関心を独占しようとハッカーたちを公然と引き抜き始めた。専念してくれるハッカーがほとんどいなければ、プログラムやマシンの修復にはさらに時間がかかってしまう。ストールマンによれば、さらに悪いことに研究所の「人口構造の変化」が起きた。かつてAI研で声高な少数派となっていたハッカーたちがその地位を失い、その一方で「(PDP-10を)心から愛してはいない教授たちや学生が、今までにないくらい大勢になってしまった」のだ。(56)

限界は1982年にやって来た。この年、研究所の管理者はメインコンピュータであるPDP-10をアップグレードすることを決めたのだ。PDP-10を作っていたDigital社は既に生産を中止していた。この会社はKL-10という高性能のメインフレームを売り出してはいたが、ハッカーがこれまでと同じオペレーティング・システムをこの新しいマシンで動かしたければ、ITSを根本から書き換えるか、あるいは「port(移植)」しなければならない。恐ろしいことに、研究所は組織内でプログラミングの才能のある人間の必要数を既に失っており、そのためAI研の教授陣はDigital社の開発したオペレーティング・システム、Twenexを強要してきた。人数で劣るハッカーたちには従う他に術はなかった。

「『システムを管理するハッカーがいなければ大変なことになる。商用ソフトウェアを使うべきだ』と(教授陣は)言ったんだ」ストールマンは数年後にこう振り返っている。「彼らは『企業に管理を任せておける』と言ってたよ。それで彼らが完全に間違っていることがわかったけど、でも実際にそうしたんだ」(57)

最初のうちは、ハッカーたちはTwenexシステムをこれもまた打倒されたがっている権威のシンボルと見なしていた。システムの名前自体がそのことを物語っている。DECにより公式にはTOPS-20と名付けられていたのだが、これはDECがPDP-10用に売り出していた商用オペレーティングシステムTOPS-10の後継だった。ボルト・ビラニク・ニューマンはTOPS-20の元になったその改良版を開発しており、それをTenexと名付けていた。(58) Twenexという呼び名を考案したハッカーのストールマンは、TOPS-20という名前を使わないで済むようにその呼び名を思いついたのだという。「システムはトップと呼ぶにはほど遠い代物だったから、そんな名前を呼ぶ筋合いはなかった」とストールマンは回想している。「だからTenexという名前に『w』をひとつくっつけて、Twenexと呼ぶことにしたんだ」

Twenex/TOPS-20システムを動かしているマシンにも、中傷的な意味で『オズ』というあだ名が付けられていた。ハッカーの伝説のひとつによれば、マシンにそのあだ名が付いたのは、端末に電力を供給するのにPDP-10が一台必要だったからだ。最初にKL-10とPDP-10のセットアップを目したあるハッカーは、すぐにそれを映画『オズの魔法使い』の中の魔法使いの大げさな登場場面になぞらえた。「我こそは偉くて強いオズ」そのハッカーは節をつけて唱えた。「コンソールのうしろのPDP-10のことは知らないよ」(59)

最初にKL-10に触れたハッカーが笑ったとしても、Twenexと対決すればその笑いもすぐに消えてしまっただろう。Twenexは最初から備えられたセキュリティを誇るだけの代物ではない。システムのソフトウェアエンジニアはツールやアプリケーションの設計にもセキュリティに気を配っていた。かつてはコンピュータサイエンス研究所のセキュリティシステムとのパスワードを巡るいたちごっこだったのが、今やシステム管理を巡る全面戦争となったのだ。システム管理者は、セキュリティ対策を施さなければオズのシステムはより頻繁に不測のクラッシュに見舞われると主張していた。ハッカーたちは、クラッシュはソースコードを徹底的に見直すことで回避できると主張した。しかし、残念ながらこのような総点検を実行するための時間ややる気のあるハッカーの数はシステム管理者の主張が通ってしまうほどにまで減少していた。

その結果から生じる残骸から証拠を集めるために、パスワードをせしめたり、わざとシステムをクラッシュさせて、ストールマンは規制を行使しようとするシステム管理者の裏をかくのに成功した。とある「クーデター」成功の後、ストールマンはAI研のスタッフ全員に向けて警告を発表した。(60)

「再び権力を占有せんとする試みが行われた」とストールマンは書いていた。「現在のところ、貴族たちの勢力は敗北した」自分の仕業であることを証明するため、ストールマンはメッセージに「自由オズ放送」の署名を入れた。

情報隠しはほんのわずかに留められた。1982年までにはストールマンのパスワードと秘密主義嫌いは広く知れ渡っていたため、研究助成金を支給され今日のインターネットの基盤となったネットワーク、ARPAnetを利用するのにAI研の外にいたユーザーは彼のアカウントを踏み台として利用していた。1980年代始めのこの手の「観光客」の一人で、ハッカーの情報網を通じてどの部外者もMITご自慢のITSシステムにアクセスするにはRMSというイニシャルと、システムからパスワードが要求されれば同じ三文字を入力すればいいと知っていた一人に、カリフォルニアのプログラマ、ドン・ホプキンスがいる。

「MITが私や他の大勢の人たちに自分たちのコンピュータを自由に使わせてくれたことには、永遠に感謝するよ」ホプキンスは言う。「大勢の人たちが恩恵を受けたんだ」

ITS時代にはMITの管理者側も大目に見ていたこのいわゆる「観光客」ポリシー(61)は、研究所のARPAnetへのプライマリ・リンクがオズになってから失われてしまった。当初はストールマンも仲間が後から同じ手順で入れるようにログインIDとパスワードを同じにするというポリシーを続けていた。しかし、時間が経つにつれ、オズの脆弱さのため、管理者たちは全くの偶然あるいは悪意をもって故意にシステムをダウンさせるかもしれない部外者たちを閉め出すことにしたのだ。この管理者たちから自分のパスワードを公開するのを止めるよう求められると、ストールマンは自分の倫理観を盾にこれを拒み、オズを使うことも一緒に止めてしまった。(62)

「MITのAI研に初めてパスワードが登場した(時)、僕は自分の信念に従ってパスワードなしにする(ことを決めた)」後にストールマンが語ることになった。「なぜなら、コンピュータにセキュリティを施すのが本当に望ましいことだとは信じられないんだ。セキュリティ体制を守るのを喜んで手助けするようになるべきじゃないと思う」(63)

ストールマンが強大かつ強力なオズに屈するのを拒んだことは、1980年代初期のハッカーとAI研の管理者との間に高まっていた緊張の表れだったが、この緊張はハッカーのコミュニティ自身の内部で沸き起こっていた軋轢とは比較にならない程度のものだった。KL-10の到来までに、ハッカーのコミュニティは二つの陣営に既に分裂してしまっていた。一方はシンボリクス社という名のソフトウェア会社に集まり、もう一方はシンボリクスの最大のライバル、Lispマシン社(LMI)のもとに集まっていた。どちらの企業もプログラミング言語Lispの利点を最大限に活かした機器、Lispマシンの市場で争っていた。

1950年代にMITの人工知能研究者で、人工知能研究のパイオニア、ジョン・マッカーシーにより発明されたLispは、特に負担の大きいソーティングやプロセッシングを行うためのプログラムにうってつけのエレガントなプログラミング言語だ。この言語の名前はLIStプロセッシングを略したものである。マッカーシーがスタンフォード大学人工知能研究所へと転任するのに伴い、MITのハッカーたちはこの言語を磨き上げてMACLISPという名の方言を作り出した。「MAC」とは、DARPAより資金提供され、AI研とコンピュータサイエンス研究所を創設することになった研究プロジェクト、プロジェクトMACのことを指している。AI研の大物ハッカー、リチャード・グリーンブラットを先頭に、1970年代にAI研のプログラマたちは完全にLispベースのオペレーティングシステム、Lispマシン・オペレーティングシステムを作り上げた。1980年には、Lispマシンのプロジェクトから二つの商用の派生版が生まれた。シンボリクス社は元AI研の管理者ラッセル・ノフツカーが、Lispマシーンズ社はグリーンブラットがそれぞれ率いていた。

Lispマシンはハッカーの作ったものだったが、つまりそれはMITが所有してはいるが、ハッカーがカスタマイズしたものも含めて全てが誰でもコピーを手に入れられるものだった。この手のシステムは、MITからライセンスを受けて独自製品として販売したい企業からマーケティングにおける優位を制限してしまう。優位を確かなものにすることで顧客にそのオペレーティングシステムを魅力が伝わる状況を強化するために、各企業は大勢のAI研のハッカーを引き抜き、AI研の後援なしにLispマシンオペレーティングシステムの様々なコンポーネントでの作業に配置するようになった。

最も積極的な戦略を打ち出していたのはシンボリクス社だった。1980年の終わりには、この企業はLispマシンの独自バージョン開発の臨時のコンサルタントとしてAI研の職員を14人雇い、ストールマンを除く全員がLMIを手助けすることにサインしていた。(64)

当初、仕事が増えることになるものの、ストールマンはLispマシンを商用化する両社の試みも受け入れていた。どちらもMITからLispマシンのソースコードのライセンスを受けており、ストールマンの仕事は研究所のLispマシンを最新の技術改良に追いつくようアップデートすることだった。シンボリクス社がMITと結んだライセンスではストールマンはシンボリクス社のソースコードをレビューすることは出来たがコピーは許されていなかった。しかしシンボリクス社の管理者側とAI研の間にストールマンのいう「紳士協定」があり、昔ながらのハッカー風のやり方で面白そうな部分を借りてくることができるようになっていた。

ストールマンは1982年の3月16日という日付のことをよく覚えている。なぜなら、その日は彼の誕生日で、シンボリクス社の重役たちがこの紳士協定を取りやめることに決めた日だったからだ。この動きは主に戦略的なものだった。Lispマシン市場における最大の競争相手であるLMIは基本的にAI研のLispマシンのコピーを使っていた。シンボリクス社の重役たちは市場のライバルの開発を手助けするより、ライセンスに記された文字の力を行使することにしたのだ。AI研がシンボリクス社のオペレーティングシステムに追随していくためには、研究所がLMIとの関係を絶ってシンボリクス社のマシンに乗り換えなければならなくなる。

研究所のLispマシンを最新の状態に保つ責任のある人間として、ストールマンは激怒した。発表を「最終通牒」と見なした彼は、シンボリクス社から研究所へのマイクロ波通信を切断して対抗した。それからシンボリクス社のマシンでは決して作業しないと断言し、即刻LMIへの忠誠を誓った。「僕の見方では、AI研は第二次大戦のときのベルギーみたいな中立国だったんだ」とストールマン。「ドイツがベルギーに侵攻してきた場合には、ベルギーはドイツに宣戦布告して英仏に味方する」

1982年から1983年にかけてのいうなれば「シンボリクス戦争」の状況は、証言する情報源により大きく食い違う。シンボリクスの重役連は、自社製品の最新機能がまだAI研のLispマシンにもあり、ひいてはLMIのLispマシンにもあることに気づくと、ストールマンのコンピュータ端末に「スパイ用」プログラムをインストールした。ストールマン曰く、彼はライセンスにあるソースコードをレビューする権限を利用し、なおかつソースコードを出来るだけ違うものになるよう苦心しながら、スクラッチからその機能を書き直していた。シンボリクスの重役側はやり方を変えてMITの管理者にこの件を訴えることにした。1994年に出版されたMITの管理者だったハーヴェイ・ニューキストの本、The Brain Makers: Genius, Ego, and Greed, and the Quest for Machines That Thinkによれば、MITの管理側はストールマンにLispマシンに「近づくな」と注意することで応じたという。(65)一方でストールマンは、管理側は自分を援護してくれたといっている。「脅されたことはないよ」と彼は話している。「でも自分なりにやり方を変えたけどね。完璧に安全でいるために、もう向こうのソースコードは読まなくなった。ドキュメントだけを使って、そこからコードを読みとるようにしたんだ」

成果はどうあれ、この論争でストールマンの意志は固まった。ソースコードを調べることなく、ストールマンは自分の好みに合わせてソフトウェアの差をなくし、次々とバグ報告を送ってくるAI研のメンバーの支持を集めていった。また、LMIのプログラマが直接変更点にアクセスできるよう手段を講じた。「やりたくはなかったけど、シンボリクスを懲らしめてやるつもりだったんだ」とストールマンは語っている。

この発言には深い意味がある。ストールマンの非平和主義的な性格を浮き彫りにするだけでなく、軋轢が招く激しい感情レベルの高まりもよく表している。ニューキストによる別の話では、ストールマンは一時期非常に怒って、「ダイナマイトを巻いてシンボリクスのオフィスに乗り込む」と脅迫する電子メールを出したという。(66)ストールマン自身はその電子メールのことは記憶になく、その存在も「悪い噂」だとしているが、そのような考えが脳裏によぎったことは認めている。「自殺して連中のビルを破壊するのを空想したのは確かだね」とストールマンは言う。「僕の人生はもうお終いだと思った」(67)

絶望が深かったのは、ストールマンがこれを例えばAI研の結束の固いハッカーのサブカルチャーなど「ホーム」に対する「破壊」と見なしていたせいだ。レヴィーとの後の電子メールによるインタビューで、ストールマンは自分のことを1960年代から70年代にかけてのインディアン戦争で絶滅させられた北米太平洋岸北西地区のヤヒ族の最後の生き残り、イシになぞらえていた。この喩えではストールマンの生き残りを賭けた戦いは英雄物語やほとんど神話のような役回りとなっている。しかし、実際にはシンボリクスとLMI派に分裂する以前のAI研の同僚たちとの間の緊張関係についてはもっともらしく言い紛らせてしまっている。Lispを商品化することで、企業はハッカー主義的なエンジニア主導のソフトウェアデザインをAI研の内部に限定された象牙の塔から経営者主導でデザインする主義が支配する市場という場所へと引き出した。多くのハッカーはストールマンを抵抗者とは見なさず、むしろ時代遅れの疫病神と見ていた。

ストールマンはこの歴史的事件の別の見方について異論を差し挟むことはしない。彼はこれもまたシンボリクスの「最終通牒」によって起きた対立の理由の一つだと語っている。シンボリクスがAI研のハッカーの大半を雇い入れてしまう前にも、ストールマンによれば後にシンボリクスに参加する多くのハッカーが自分を避けていたという。「僕はもうチャイナタウンに誘われることはなくなってたんだ」とストールマンは回想している。「グリーンブラットが始めた習慣では、夕食に出かけたくなったら、声をかけてまわったりメッセージを送ったりして研究所の誰にでも一緒に行きたくないか誘うことになってた。でも1980年か1981年頃になると、僕は誘われなくなったんだ。誘ってくれなくなっただけじゃなく、ある人が後で告白してたけど、僕なしで夕食に出かけているのを隠して僕には嘘をつくように強いられていたって話だ」

ストールマンはこんな狭量な村八分のやり方を画策したハッカーに怒りを覚えはしたが、シンボリクスとの争いはまた新たな怒り、家を奪われそうになっている人間の感じる怒りを呼び起こした。シンボリクスがソースコードの変更を送るのを停止した際、ストールマンはMITのオフィスに籠もってソフトウェアやツールの新機能をスクラッチから書き直してそれに応じた。フラストレーションのたまる作業ではあったが、それによりLispマシンのユーザーが将来に渡りシンボリクスのユーザーと同じ機能に自由にアクセスすることができることが保証されたのだ。

さらに、そのことでハッカーのコミュニティ内でのストールマンの伝説的な地位もまた確固たるものになった。既に自身のEmacsにおける業績で知れ渡ってはいたが、少なくはない数の伝説的なハッカーもいたシンボリクスのプログラマたちのチーム全体の成果に匹敵するストールマンの能力は、情報化時代における、あるいはどの時代においても、最も重要な偉業のひとつである。これは「マスターハック」であり、ストールマン自身については「コンピュータ・コードのバーチャル・ジョン・ヘンリ(訳注・19世紀に活躍したとされる伝説的な黒人の鉄道作業員)」と呼んだ著者のスティーヴン・レヴィーは、シンボリクスに雇われた多くのライバルたちは、理想主義的なこの元の同僚に嫌々ながらも敬意を抱かずにはいられなかったことに言及している。レヴィーはシンボリクスのパロアルトのオフィスで働くようになったビル・ゴスパーというハッカーがこの時期のストールマンの成果について次のような驚きの表明を引用している:

ストールマンの書いたものを見て、ひどい出来だと言うことはできる(おそらく違うだろうけれども、でも誰かがひどい出来だと思わせるかもしれない)けれども、「でもちょっと待てよ。ストールマンは一晩中相談するような相手もいなかったんだ。彼はたった一人でやってのけたんだよ!こんなことを一人でやるなんて信じられない!」(68)

シンボリクスに追いつこうと競っていた月々はストールマンに誇りと深い悲しみの混じった感情を呼び起こした。父親が第二次大戦に従軍したほどの生粋のリベラルであるストールマンは、決して平和主義者ではなかった。いろいろな意味で、シンボリクスとの戦いは10年前にAI研のスタッフとなって以来突っ走ってきたことへの通過儀礼となった。しかし、一方でそれは十代の頃からストールマンを育んできたAI研のハッカー文化の衝撃的な破壊も引き起こした。ある日、コードを書く手を休めている時にストールマンはAI研の機器室でトラウマとなる瞬間が通り過ぎていくのを体験した。ストールマンはそこでもう使われていない不格好なPDP-10マシンに出くわした。休止状態となっているライト、かつて内部プログラムの状態を示す無言の暗号で活発に瞬いていたライトに驚き、感情的なインパクトは愛する家族の生前のままの遺骸に出くわしたのとそう違いはなかったとストールマンは語っている。

「機器室のその場所で僕は泣き出したよ」と彼は語っている。「そこにあるマシンたち、死んでしまって、誰も直してくれる人は残っていなくて、自分のコミュニティはもう完全に破壊されてしまったんだってことをそのこと全てに思い知らされた」

ストールマンには嘆いている暇はほとんどなかった。それがどんなに激しい怒りを巻き起こし、またそこにどれだけの労力を注ぎ込んでいたとしても、Lispマシンの一件はテクノロジー市場での大きな戦いの小さな事件に過ぎない。コンピュータの小型化へと向かう容赦ないスピードにより、モダンな巨大都市が古代の砂漠の村を飲み込んでしまうようにマシンのハードウェアとソフトウェアの能力を具体化するさらに新しく、より強力なマイクロプロセッサが生み出されようとしていた。

このようなマイクロプロセッサの波に乗った数百、数千もの商用ソフトウェアがあり、そのどれもがハッカーにソースコードを調べたり共有したりするのを不可能にするユーザーライセンスと非開示契約の寄せ集めで保護されていた。ライセンスは露骨で無様なものだったが、1983年までには法廷を満足させ、侵入を試みんとする者を脅すには十分強力なものとなっていった。かつては大半のハードウェア会社が自分たちの高価なコンピュータシステムの美点を増やそうと配っていたつけあわせ程度のものだったソフトウェアが、メインディッシュへと早変わりしてしまったのだ。新しいゲームや機能に飢えたユーザーは、どの料理の後でもレシピを詳しく見てみるのを求めていた習慣を脇に追いやってしまった。

パーソナルコンピュータの世界ほどこの状況が明らかなところはない。アップルコンピュータやコモドールのような企業は組込型オペレーティングシステムの販売で新たな億万長者を生み出した。ハッカー文化やそのバイナリでしか手に入らないソフトウェアへの嫌悪感のことなど気にも留めず、ユーザーの多くがこれらの企業がソースコードのファイルを添付せずとも抗議する必要を感じることはなかった。アナーキーなハッカー倫理を信奉する何人かはこの新しい市場にもその倫理を推し進めようとしたが、大半の場合、市場はプログラマが新たなプログラムを書くよう素早く報酬を出し、そして出来上がったものを法的に保護されるよう抜け目なく著作権の下に置いた。

この手のプログラマの中でも最も悪名高い一人に、ストールマンより二歳年下でハーバード大のドロップアウトだったビル・ゲイツがいる。7年後、その当時ストールマンは知らなかったが、アルバカーキに拠点を置くソフトウェア会社Micro-Soft、後にMicrosoftと綴りを変えた企業の新進起業家だったゲイツはニューズグループのnet.unix-wizardsでソフトウェア開発者コミュニティに公開書簡を送っている。Micro-Softのソフトウェアを無断複製しているPCユーザーへの返答として、ゲイツは「ホビーストへの公開書簡」でコミュニティをベースとしたソフトウェア開発を厳しく非難していた。

「プロフェッショナルの仕事を無料で手に入れられるわけがないではないか」とゲイツは問いかけた。「プログラムに三人年注ぎ込んでどんなバグも見つけ、製品のドキュメントを書き、無料で配布するなんて、いったいどんなホビーストだというのか」(69)

AI研のハッカーはほとんど誰もその書簡を見ていなかったが、ゲイツの1976年に出されたこの公開書簡は商用ソフトウェア会社と商用ソフトウェア開発者双方のソフトウェアに対する姿勢の変化を体現していた。市場はまるで逆のことを物語っているのに、なぜソフトウェアをコストがかからない商品として扱うというのか。1970年代が80年代に変わると、ソフトウェア販売はコストの埋め合わせ以上のものになっていった。つまり、政治的な声明となったのだ。レーガン政権が連邦規制の大半を急速に撤廃し、大恐慌以降の半世紀の間に立案されてきた計画を浪費していた時代、少ないとはいえない数のプログラマたちがハッカーの倫理を反競争的な、さらにいえば非アメリカ的なものと見なしていた。贔屓目に見ても1960年代と70年代初期の頃の反競争的な姿勢への揺り戻しだ。ウォール街の銀行家たちがダブルカフスのシャツとダブルのスーツの間に隠れて絞り染めのシャツがあるのを見つけてしまった時のように、多くのコンピュータープログラマはハッカー倫理をかつて自分が理想主義者だった頃を思い出させる気恥ずかしいものと捉えていた。

1960年代を50年代への恥ずかしい後戻りに費やしてしまった男として、ストールマンは自分の同業者と比べて時代遅れでいることを気にはしなかった。しかし、最高のマシンと最高のソフトウェアで仕事をしていたプログラマとしては、ストールマンは「純然たる道徳的な選択」としか自分でも呼びようがないものと直面していた。倫理から「独占ソフトウェア」 -- ストールマンとその仲間のハッカーは私有を認める著作権あるいはコピーや修正を禁止するエンドユーザーライセンスを持つソフトウェアのことをそう呼んでいる -- に反対しているのをやめてしまうか、それとも一生をかけて独占的でない代替のソフトウェアシステムを築き上げるのに費やすのか。シンボリクス社との間でここ何ヶ月にも渡る試練を受けたストールマンには、後者の選択肢の方がより心地よかった。「コンピュータで仕事をするのをみんな止めてしまう手もあった」とストールマンは語る。「僕には他に特別なスキルがあるわけじゃないけど、でもウェイターになることなら出来た。そんなに洒落たレストランじゃダメだろうけど、でもどこかでウェイターになる手もあった」

ウェイターになるということは、つまりプログラミングをも一緒に止めてしまうことだ。それは彼に多大な喜びを与えてくれた活動、コンピュータのプログラミングを諦めることを意味していた。ケンブリッジに移ってからの人生を振り返ると、ソフトウェアのプログラミングが喜びだけを与えてくれた期間の長さを簡単に見分けることができた。ストールマンはドロップアウトしたのではない。むしろ最後までやり遂げたのだ。

無神論者であるストールマンは、運命や天の理、神のお召しといったような考え方は認めていない。しかし、それでも独占ソフトウェアを避け、そして他の人も同じことができるよう手助けするためにオペレーティングシステムを作り上げるという決断は自然なことだと感じていた。結局のところ、ストールマン自身の頑固さや先見の明、コードを書く才能の組み合わせこそが彼をして他の人がその存在を知りさえしなかった分岐点のことを考えさせるに至ったのだ。1999年に出版された書籍『Open Sources』のある章で、この決断のことをストールマンはユダヤ人の賢者ヒレルの言葉に集約されている精神を引き合いに出して説明している。

自らのために在るのでなければ、誰が自分となってくれるというのか?
自らのためだけに在るのなら、自分とは何者なのか?
今でなければ、いつなのか?(70)

読者に向けて語りかける場合には、ストールマンは宗教的な経路は避けて実際的な用語でこの決意のことを説明する。「自分に問いかけてみたんだ。オペレーティングシステムの開発者である僕には、状況を打開するために何が出来る?この疑問をしばらく考えるまでは、オペレーティングシステムの開発者こそこの問題を解決するのに必要な人材だってことに気付いてはいなかったんだよ」

ストールマンが語るところでは、ひとたび結論に達すると、全てが「収まるところに収まった」。彼は自分の倫理上の信念に妥協を迫るようなソフトウェアを使うのを絶ち、同時に他の人たちも同じ道を容易に進むことができるようにするためのソフトウェアを開発することに人生を捧げることに決めた。フリーソフトウェアのオペレーティングシステムの作成を誓うか、「それとももちろん、昔ながらの命がけのやり方か」とストールマンは冗談めかすが、彼は1984年1月、GNUを立ち上げるためにMITのスタッフの職を辞した。

辞職によりストールマンの仕事はMITの法的な保護の下にはなくなってしまったが、それでもストールマンにはMITのオフィスを自由に使い続けられるようにしてくれる友人や支持者がAI研に大勢いた。彼はまた初期段階のGNUのコンサルティングを引き受けてくれる外部の人間を確保できることもできた。 しかし、MITを辞職するに際して、ストールマンは利害の衝突や研究所のソフトウェア所有権を巡る議論については否定したままだった。成人したての頃は社会的に孤立することでますますどっぷりとAI研の腕の中にはまりこんでいた男が、今や自分の周囲の間に法律の壁を築こうとしていた。

最初の数ヶ月間、ストールマンはUNIXコミュニティでも孤立して活動していた。ニューズグループnet.unix-wizardsに送ったアナウンスは共感する反応もあったものの、最初の段階ではこの十字軍に参加登録したボランティアはほとんどいなかった。

コミュニティの反応はどれも似たようなものだった」当時UNIXユーザーグループのリーダーだったリッチ・モリンは振り返る。「みんなは『ああ、それはいい考えだね。コードを見せてよ。ほんとに出来るかどうか見せてくれ』と話していたね」

真のハッカーのやり方として、ストールマンはまずGNUプログラムやツールに転用できそうな既存のプログラムやツールを探すことから始めた。最初はVUCKというコンパイラで、広く使われているCプログラミング言語で書かれたプログラムをマシンが読めるコードに変換するためのものだ。プログラムの名前はオランダ語からの翻訳で自由大学コンパイラキット(Free Univsersity Compiler Kit)の略だ。おめでたいことにストールマンは作者にこのプログラムは自由なのかと尋ねた。作者に「自由大学」というのはアムステルダムのフリイエ大学(Vrije Universiteit)のことをだと告げられ、ストールマンは落胆した。

「彼は馬鹿にしたような調子で、大学は自由ですけどコンパイラは違いますよ、と返事を切り出していたね」とストールマンは振り返る。「それでGNUプロジェクトの最初のプログラムはマルチ言語、マルチプラットフォームのコンパイラにしようって決めたんだ」(71)

ようやくストールマンはローレンス・リヴァーモア国立研究所のプログラマが書いたPastel言語のコンパイラを見つけ出した。当時のストールマンの知る限りでは、そのコンパイラは複製も改変も自由だった。しかし残念ながらそのプログラムには設計上の欠陥があった。このコンパイラはそれぞれのプログラムをコアメモリ内に保存し、他のソフトウェアの活動のための貴重な領域を占有してしまう。メインフレームではこのような設計も許容されるが、Unixが動いているマシンは生成されるファイルが大きすぎて扱えないため、Unixシステム上では重大な障害となる。ストールマンは最初にC言語互換のフロントエンドを作ってかなりの改善を施したが、夏までには完全に新しいコンパイラをスクラッチから書き起こす必要があるという結論に達した。

1984年9月、ストールマンはもっと差し迫った問題のためコンパイラの開発をいったん棚上げし、もっと簡単に手の届くところから始めることにした。10年に渡り自分が管理してきたEmacsのGNUバージョンの開発に着手したのだ。この決断は戦略的な理由によるものだった。Unixコミュニティの二つのネイティブのエディタといえばサンマイクロシステムズの共同創設者ビル・ジョイの作ったviとベル研の科学者(そしてUnixの共同考案者でもある)ケン・トンプソンのedだ。どちらも便利で人気も高かったが、Emacsのようにどこまでも拡張できるような機能はなかった。EmacsをUnix利用者向けに書き直すことで、ストールマンが自分のスキルを披露するいい機会を得られる。また、Emacsのユーザーがストールマンの考え方に同調してくれるきっかけになる。

当時を振り返り、ストールマンはこの決断を戦略的なものだったとは見なしていなかったという。「Emacsが欲しかったんだよ。開発するにはいい機会だったしね」

ここでもまた車輪の再発明という考えはストールマンの凄腕ハッカーとしての感性にはそぐわなかった。Unix版のEmacsを書くにあたり、ストールマンは早速C言語をベースにしたGosling EmacsあるいはGOSMACSと呼ばれていたバージョンの作者でカーネギーメロン大学の大学院生、ジェイムズ・ゴスリングのやり方を真似ることにした。ゴスリング版のEmacsはLisp言語から派生した簡易版のMOCKLISPを利用したインタプリタが盛り込まれていた。GNU Emacsを同じようにLispを土台にして作ろうと決めたストールマンは、ゴスリングの革新的なところから多くをいただいてきた。ゴスリングはGOSMACSに著作権を付け、それを私企業であるUniPress社に売却していたが、ストールマンは初期のMOCKLISPインタプリタに関わっていたハッカー仲間の請け負ってくれたのを引き合いに出した。開発者でカーネギーメロン大学の博士課程の学生だったゴスリングは、初期の協力者に自分たちの作ったものにはアクセスできるようにしておくと請け負っていたのだ。だが、UniPress社はストールマンのプロジェクトのことに気付くと、著作権を行使すると脅してきた。またしても、ストールマンは一から作り上げるかもしれない事態に相見えることになった。

ゴスリングのインタプリタをリバースエンジニアリングするうちに、ストールマンはゴスリングのオリジナルのインタプリタ関連の必要性を有名無実として、それでも十分有用なLispインタプリタを作り出すことにした。とはいえ、開発者がソフトウェアの権利を売却してしまうという考え方は、実際、そもそもソフトウェアの権利を売却する開発者の考えだけでも、ストールマンを怒らせた。1986年のスウェーデン王立科学研究所でのスピーチで、ストールマンはUniPress社との一件を独占ソフトウェアにまつわる危険のさらなる一例として引き合いに出している。

「ときどき、自分の一生で出来るいちばんのことは、企業秘密になってる独占ソフトウェアを山ほど見つけてきて、街角でそのコピーを配ってもう企業秘密でもなんでもないものにし始めることだと思うことがある」とストールマンは語っている。「たぶん、みんなにフリーソフトウェアをあげるにはその方が自分で書くよりもずっと効果的なやり方なんだろうね。だけどみんな臆病すぎて受け取ることだってできないんだけど」(72)

そこから生み出されるストレスよりも、ゴスリングの発明を巡る議論の方がストールマンとフリーソフトウェア運動にとって長い目で見れば役に立ったのかもしれない。この件からストールマンはEmacsコミューンの弱点、問題となりそうな派生物をはっきりさせる変則的な信用システムというものにに本気で取り組まざるを得なくなったからだ。また、フローソフトウェア運動の政治的目標も固めていく必要があった。1995年のGNU Emacsのリリースに続けて、ストールマンは1983年9月に投稿した発表を元に拡充させた「GNU宣言」を発表した。その文書には独占ソフトウェアの拡散を正当化する民間、在学のプログラマが用いる様々な論法についての長い章がある。そのような論法の一つ、「プログラマは創造性に対して報酬を受けるべきではない」ではゴスリング版Emacsのエピソードの際のストールマンの怒りをうまくまとめた反応を引き出している。

「何か報酬を得るに値するとしたら、それは社会貢献することだ」とストールマンは書いている。「創造性は社会貢献となることもできるが、それは社会がその成果を自由に利用できる限り(ママ)だけだ。プログラマが革新的なプログラムを作成することで報酬を受けるに値するなら、そのようなソフトウェアの利用を禁じれば、そのプログラマは同じ理屈で罰を受けるべきだ」(73)

GNU Emacsのリリースで、GNUプロジェクトはようやく発表できるコードを手に入れた。また、それによりソフトウェアベースの事業としての業務も発生することになった。このソフトウェアを使うUnixの開発者がますます増えるに伴い、金銭や進物、テープの注文が殺到するようになったのだ。GNUプロジェクトのビジネス面の問題に対処するため、ストールマンは数人の仲間を選び、GNUプロジェクトを目標に向けてより速やかに推進させていくための非営利団体、フリーソフトウェア財団(FSF)を組織した。ストールマンを会長に、そして様々な協力者のハッカーたちを役員として迎え、FSFはGNUプロジェクトが法人としての体裁を取るのを手助けしていった。

当時Lispマシーンズ社に在職中だったプログラマ、ロバート・チャセルは、ストールマンとの食事中の会話の後、フリーソフトウェア財団の五人の創立委員の一人となった。チャセルはまた最初は小規模だったがすぐにその役割が大きくなっていった組織の会計係としても勤務することになった。

「85年には私たちの総支出額と総収入はほぼ2万3千ドル程度になっていたと思う」チャセルは振り返る。「リチャードは自分のオフィスを持っていて、私たちはそこのスペースを借りていたんだ。私はあらゆる物、特にテープを自分の机に入れていた。後になってLMIが場所をいくつか貸してくれてテープやその手のものを収納できるようになるまでそうしていたよ」

プロジェクトの体裁を用意するのに加えて、フリーソフトウェア財団は迷いから覚めた他のプログラマたちを引きつける重力の中心となるよう手はずを整えていった。ストールマンが最初にGNUプロジェクトについて発表した頃でも皆が平等だったように思われていたUnixの市場も、次第に競争が激しくなってきた。そのため消費者をより強く繋ぎ止めておくための試みとして、企業はUnixのソースコードへのアクセスを停止するようになったが、そのようなトレンドはかえって進行中のGNUのプロジェクトへの問い合わせを増やすことになった。かつてストールマンを小うるさい変人とあしらっていたUnixの魔術師たちも今や彼をソフトウェア界のカッサンドラと見なし始めていた。

「自分の身にも同じことが起こるまで、何年も費やして自分が作業してきたソフトウェアを消し去られるのがいかに悔しいのか気付かない人は大勢いるものだ」最初の頃にFSFに手紙を書いてきた人たちの感情や意見をまとめて、チャセルは語っている。「何度かそんな目に遭えば、思うようになる。『おい、ちょっと待てよ』って」

チャセルにとって、フリーソフトウェア財団に参加すると決めたのは自身の喪失感からだった。LMIに勤務する以前、チャセルはケンブリッジのソフトウェア会社Cadmus社に雇われてUnixの紹介本を書いていた。そのCadmus社がその本の権利共々倒れてしまった際に、チャセルは権利を買い戻そうとして不首尾に終わったのだという。

「私の知る限りでは、その本はまだどこかの棚に鎮座したまま、誰も使えず、誰も複製できず、いたずらに制度の外に置かれたままになっている」とチャセルは言う。「我ながらこういう言い方も許されるなら、あの本はとてもいい入門書だった。(本を)書き換えて現在のGNU/Linuxの入門用に申し分なく利用できるようにするのは、おそらく3ヶ月か4ヶ月程で済むだろう。その実績の全てが、自分の記憶にあるものを除けば、全て失われてしまったんだ」

雇用主が倒産に苦しんでいる一方で、自分の仕事が泥沼に沈んでいくのを指をくわえて見ていることを強いられた時、ストールマンに卒中の発作を起こさせるようなその怒りの理由の一つを感じたとチャセルは言う。「最もはっきりしているのは、私にとっては、誰でも文化的な生活を営んでいれば、そのいくつかの部分を止められるのは嫌だということだ」とチャセルは語っている。「参加して何かを決めて直す自由という全体構想は、たとえ何に対してであっても、本当に重要なものなんだ。何年か過ごしてきた後に、自分のしたことが無駄ではないと幸せに思うようになる。なぜなら、もしそれがなければそんなものは消し去られ、捨てられるか放棄され、あるいは控えめにいうとしても、もう無関係になる他ない。まるで人生の一部を失ってしまうようなものだね。」


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